史跡の概要

 聖寿寺館跡は、青森県南東部、奥州街道と鹿角街道の合流点付近、馬淵川沿いの交通の要衝に立地する、南部氏本宗家の室町時代から戦国時代の本拠地です。南部氏は甲斐源氏の支流で、南北朝期に勢力を伸張し、戦国時代に東北北部地方に覇をとなえ、東北地方を代表する武士団とされています。盛岡藩の史書では、聖寿寺館は14世紀末頃から南部氏の本拠地とされていましたが、1539年(天文8)に家中の内紛によって焼亡したとされ、創建期の記録もほとんどが伝承となってしまいました。しかし町内には現在でも南部氏に関連する城館や藩主の墓、霊廟などの文化財が良好な状態で遺されているため、これら貴重な文化財の調査研究、並びに保存・活用を努め、失われた中世南部氏の歴史解明を目的として発掘調査他、専門的な調査が行われてきました。
 「史跡 聖寿寺館跡」は「聖寿寺館跡本体」のほかに、南部氏の菩提寺のある「三光寺地区」、氏神である「本三戸八幡宮地区」の3地区で構成しており、その歴史的重要性が認められ平成16年9月30日に史跡指定を受けました。

 

聖寿寺館跡本体

 聖寿寺館跡は、標高60~70m(周辺との比高差20m)の丘陵地上に立地しており、館跡内部には数軒の民家がありますが殆ど果樹園で大きな改変はないため、保存状態は極めて良好です。館跡は北側と東側を幅約6~10mの大型の堀で区切られているほか、西側から続く堀跡もあります。西側は切り立った断崖で南側は帯郭状になっており、若宮八幡宮が祭られています。
 館の創建は不明ですが、1539年(天文8)家臣の放火により焼失し、現在の三戸城に移ったとされています。平成5年度に試掘調査、平成6年度から本調査に入り現在に至っており、多くの貴重な成果を得て現在に至っています。これまでの調査面積は約12,847平方メートル。


三光寺地区

 福寿山三光寺は臨済宗の寺院で、聖寿寺館跡の北側に位置しています。当時は南部氏の菩提寺である聖寿寺、東禅寺、三光庵がありましたが、南部氏が盛岡に移った時点で三光庵(寺)が菩提寺として残りました。境内には南部26代信直夫妻の墓所(町史跡)、南部27代利直の霊屋(県重宝)、利直の四男利康の霊屋(国重文)、伝南部2代実光の墓所などがあります。なお住職の墓地には中世後期の宝篋印塔の一部分があり、寺の歴史を物語っています。


三光寺山門


 

伝 南部2代実光の墓所

 


 

26代南部信直夫妻の墓石

本三戸八幡宮地区

 聖寿寺館跡本体の南方、馬淵川沿いに横たわる台地上に構築されています。1578年(天正6)に南部信直が営んだ館跡といわれていますが、聖寿寺館跡が放棄される以前から存在した防御施設と思われます。それはこの館跡の東側先端部に南部氏が甲州から勧請した本三戸八幡宮があるほか、南部23代安信の墓所(県重宝)が残されています。安信の死は1525年(大永5)、あるいは1508年(永正5)のこととされています。なお、後背部に南部氏累代の墓所がありましたが、馬淵川の侵食により消失したと伝えられています。北側にある神官の墓地には宝篋印塔の一部が残っており、中世後期のものと推定されます。


本三戸八幡宮境内


23代南部安信の宝篋印塔

国・県指定、国登録文化財マップ(南部・名川地区)