発掘調査・記録風景   発掘風景

調査に至る経緯

 南部氏は清和源氏の流れに属する甲斐源氏の一族で、源義家の弟新羅三郎義光に始まります。義光は甲斐守に任命された経歴を有しますが、甲斐国に土着したのはその子義清からで、義清とその子清光、清光の多くの子等の三代にわたり勢力を拡大し、ほぼ甲斐一国を支配するようになったといわれています。清光の三男遠光は巨摩郡加賀美荘を所領としていたので加賀美遠光と称されました。この遠光の三男光行が南部氏の祖となり、のちに父遠光から甲州巨摩郡南部荘を譲られ、南部三郎光行と称したといわれます。南部氏がいつ頃、奥州に入部したのかは定かではありませんが、当時の文献史料から鎌倉時代の末頃までには入部していたと考えられます。室町時代か戦国時代の前半にかけて、南部氏は当時三戸と呼ばれていた現在の聖寿寺館を中心として、青森県のほぼ全域から岩手県の北部、秋田県の鹿角地方を支配下に治めました。しかし、24代晴政の代、1539年(天文8)6月14日、南部氏代々の居城である聖寿寺館を家臣赤沼備中の放火により焼失、典籍・什器も灰燼に帰したと伝わっています。
 三戸南部氏の本拠地とされていた南部町には、現在でも城館ならびに藩主の墓所・霊廟・神社・仏閣等文化財が極めて良好な状態で遺されており、これらの歴史遺産の保護と後世への継承、中世三戸南部氏の歴史解明を目的に、平成4年南部氏関連城館整備検討委員会が発足し、平成26年には調査と整備を目的に史跡聖寿寺館跡調査整備委員会が発足しました。地下に眠る遺構・遺物から往時の政治力・経済力・文化力などの認定を図るため、発掘調査が実施されています。

調査結果

 聖寿寺館跡本体は開発による破壊が殆どなく、中世の状態が良好に保存されています。検出された遺構は掘立柱建物跡が4棟、竪穴建物跡が38棟、堀跡等があります。
 掘立柱建物跡は城館の西側地区に集中し、逆に東側地区には工房や倉庫と推定される竪穴建物跡が集中する傾向が見られます。これらの遺構は、出土遺物から概ね15世紀後半から16世紀前半のものと推定されます。
 遺物のほとんどは遺構内からの出土で、日用品、武器・武具、宗教用具、茶道や香道の道具、化粧道具、文具など多種多量で、中世三戸南部氏の物心両面の豊かさがうかがわれます。年代は15世紀から16世紀前葉にかけてのものがほとんどです。