ページ概要:町指定の民俗文化財を紹介します。

剣吉諏訪神社神楽

呼び方:けんよし すわじんじゃ かぐら
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:昭和51年2月20日


解説
 1771年(明和8)に諏訪神社の神輿を京都で作らせ、このときサギリ(商宮津)、神楽、鹿踊りの三つの神事芸能を伝承しました。世話人村井市右衛門氏が京都から人を招いて伝承させたといい、翌9年まで用具などを整え終わったという記録が残っています。神楽は朱塗 りの大きな獅子頭、それに大きな広い幕がついています。

剣吉諏訪神社鹿踊

呼び方:けんよし すわじんじゃ しかおどり
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:昭和51年2月20日


解説
 1771年(明和8)に諏訪神社の神輿を京都で作らせ、このときサギリ(商宮津)、神楽、鹿踊りの三つの神事芸能を伝承しまた。世話人村井市右衛門氏が京都から人を招いて伝承させたといい、翌9年まで用具などを整え終わったという記録が残っています。鹿踊が現在用いている鹿頭は、1847年(弘化4)に上町の吉十郎が細工したものと格納箱に記されています。

上斗賀南部虎舞

呼び方:かみとか なんぶ とらまい                                                 
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:昭和51年2月20日


解説
 この虎舞はおよそ300年以前に虎頭と虎肌を作り、親虎子虎の2匹で舞踊り、村人たちの願いや作物の秋の収穫をとらえてくれるという2つの融合調和の姿として、意気盛んな虎に切なる心をたくした民俗信仰の舞として誕生したと伝承されています。

虎渡杵舞

呼び方:とらと きねまい
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:昭和51年2月20日

解説
 今からおよそ800年以前の鎌倉時代、武士が戦場へ出陣の際に将兵の士気を高揚させたり、或いは戦いに勝って凱旋の折その功労をねぎらったりするため、七つ道具を用いて舞を披露して慰安に供し、神前に奉納したものと申し伝えがあります。

 

 

 

 

剣吉諏訪神社商宮律

呼び方:けんよし すわじんじゃ さぎり
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:昭和51年2月20日

解説
 「明和9年壬辰7月吉日、西村和泉守作、奉納諏訪神社大明神、剣吉村願主村井氏、立花氏」という銘のあることから、今から200年以前、神輿、神楽、鹿踊りと共に京都より移入したとされています。豊年祈願の秋祭りの際、神輿と共に行列に加わっています。

 

 

下斗賀熊野神社権現舞

呼び方:しもとか くまのじんじゃ ごんげんまい
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:昭和59年10月31日


解説
 およそ250年以前から伝わる舞で、寛保年間(1741~1743)に津要玄梁の寺下法明燈の落慶式典に、熊野系の山伏と思われる下斗賀東学坊が参列したことが館村誌に載っており、下斗賀熊野神社の権現様は東学坊のものと思われます。その後連綿として受継がれてきましたが、明治維新の神仏分離など大変な変遷にあいました。舞は権現をかぶり、あごを打ち鳴らす「はうち」の響きが大きな特徴です。舞の種類も「門払い」「青し上げ」「人がため」「家がため」等、その調子も2拍子、3拍子、4拍子とに分かれています。昔は、唄あり舞も12ありましたが今はほとんど残っていません。

上名久井諏訪神社神楽

呼び方:かみなくい すわじんじゃ かぐら
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:平成16年4月1日


解説
上名久井諏訪神社神楽は、1862年(文久2)に獅子頭を奉納しました。その獅子頭は朱色の大神楽で、獅子頭の中に銜(くわ)え棒があり、舞い手はこの棒を銜えて踊るため歯が丈夫でなければ踊ることができないといわれています。毎年、諏訪神社の宮司と共に春祈祷を行っています。

剣吉下町内朳組

呼び方:けんよし しも ちょうない えんぶりぐみ
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:昭和51年2月20日
 


解説
 下町内えんぶりの創始時代はつまびらかではありませんが、藩政時代より始まり、明治、大正、昭和と経て現代に代々受継がれ今日に至っています。農作物の豊年を祈願し祝う素朴な行事がだんだん発達し、土地の地頭や藩主の御膳での祝事となり、また産土神を中心としてえんぶりも神事として部落民のよりどころとし、一方は冬期間のレクリエーション的として親しまれ育ってきました。付随して種々の舞、南部手踊り等も発達し近郷で盛んな時は80組もあり、競演では1位の栄冠もありました。

森越朳組

呼び方:もりこし えんぶりぐみ
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:昭和51年2月20日

解説
 創始の年代は記録がないため不明ですが、老人の話を総合してみると明治初期といわれています。昭和15年頃まで八戸行列に参加していました。昭和5年1月錦座(東宝)において、えんぶり競演会に出場し1等賞を受賞しています。

 

下斗賀朳組

呼び方:しもとか えんぶりぐみ
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:昭和51年2月20日


解説
 創始伝来の経路年代を明らかにした記録はありませんが、年配の方の話によれば八戸藩時代(1850年頃)に創始されたらしく、以来村(部落)えんぶりとして昭和18年まで継続し、19年に廃止されるところでしたが、3名の愛好者が村えんぶりとしてではなくとも保存していくべきという意見のもと、現在まで保存されてきました。下斗賀えんぶりは、どさい雄の持つ雄々しき所作を伝統にしています。

上斗賀朳組

呼び方:かみとか えんぶりぐみ
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:昭和51年2月20日


解説
 創始以来の経路年代は明らかではありませんが、八戸藩時代あったえんぶりの流れをくむものと伝えられています。

南部手踊(七踊り)

呼び方:なんぶ ておどり(ななおどり)
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:平成6年12月22日

解説
 200年以上も前から踊り継がれていると言われています。その踊りを舞台踊りとして今日のようにアレンジしたのが、旧北川村の故栗山由太郎氏であり、更に旧下斗賀村の故舘松栄源次郎氏によって県内外に広く普及され、一般愛好家たちにも伝承されてきました。今では、八戸市や上北地方、また久慈方面や二戸地方でもこの南部手踊りが盛んに踊られています。

 

南部七大民謡(南部七唄)

呼び方:なんぶ ななだい みんよう(なんぶ ななうた)
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:平成10年11月18日
 


解説
 「南部手踊り(七踊り)」(平成6年12月22日指定)は約800年以上前から踊られていたと伝えられていますが、それ以前から伴奏をなす七唄の原型はあったといわれています。南部七踊りを舞台踊りとしてアレンジしたのが旧北川村の故栗山由太郎氏ですが、頃を同じくし、七唄も舞台用にアレンジされ三味線・太鼓も付けられ、七踊りと共に発達し現在まで唄い継がれて来ました。いわば名川地区は南部七唄発祥の地といえます。

高瀬町内朳組

呼び方:たかせ ちょうない えんぶりぐみ
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:平成16年4月1日
 


解説
高瀬町内のえんぶり組は明治時代からありました。えんぶり太鼓の胴の裏には「万延二年(1861)酉七月宮野若者中」と墨で書いてあるため、今から約150年前にえんぶり組が現存していたことがわかります。現在は「南部地方えんぶり」に参加し、高瀬町内の門付けをしています。

片岸えんぶり組

呼び方:かたぎし えんぶりぐみ
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:平成30年2月21日


解説
 
創始伝来の経路年代は明らかではありませんが、昭和40年頃から後継者不足などの理由で一時休止状態となっていましたが、昭和55年頃から青年団を中心に復活の動きが始まり、平成15年に福地小学校創立130周年記念式典でえんぶりを奉納し、以来本格的な活動を行っています。

玉掛えんぶり組

呼び方:たまかけ えんぶりぐみ
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:平成30年2月21日

解説
 
詳しい年代は不明ですが、明治時代から太鼓を叩きながらえんぶり唄が歌われていたことが伝えられています。組の活動は戦時中から中断したが、地域の先輩方から指導を受けて、農作物の豊作を祈願する郷土芸能の、玉掛どうさいえんぶり組が復活しました。

大向えんぶり組

呼び方:おおむかい えんぶりぐみ
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:平成30年2月21日


解説
 
創始伝来は明らかではないが、明治期にはすでに行われていたと伝えられる。戦時中に一時休止したものの、終戦直後、歌詞だけ梅内のものを採用して復活し、昭和22年に向小学校で演じたのが復活の始まりでした。向鶴の家紋の使用については、昭和23年10月17日に南部家44代利英公が盛岡から三戸にお出ましになった時に願い出て、許可を頂いた経緯があります。

下斗賀稲荷神社宮太鼓

呼び方:しもとか いなりじんじゃ みやだいこ
種 別:有形民俗文化財
指定年月日:平成6年12月22日

解説
稲荷神社の宮太鼓は、1771年(明和8)卯2月吉日(1771年)大阪渡辺移北ノ町の細工人満屋源蔵が製作した後、1822年(文政5)壬午歳5月吉日(1861年)、1876年(明治9)5月5日に太鼓の張替をして現在に至っているものです。

茶臼

呼び方:ちゃうす
種 別:有形民俗文化財
指定年月日:平成9年6月27日


解説
年代ははっきりしていませんが中世に普及した形式で、戦国時代の遺跡から出土するものと同じものです。

 

 

高瀬町内会朳太鼓

呼び方:たかせ ちょうないかい えんぶり だいこ
種 別:有形民俗文化財
指定年月日:平成16年4月1日


解説
高瀬町内の朳組は明治時代からありました。また、えんぶり太鼓の胴の裏には「万延二年(1861)酉七月宮野若者中」と墨で書いてあるため、今から約150年前にえんぶり組が現存していたことがわかります。

剣吉諏訪神社御輿

 読み方:けんよしすわじんじゃみこし
 種 別:有形民俗文化財
 指定年月日:令和元年11月20日
 

 剣吉諏訪神社の中心的な祭具で、御輿底面の朱書きによって明和8年(1771)に京都で建造されたことが明らかとなった。また、飾り箱の蓋書きによって、京都から八戸経由で剣吉に運ばれたことも明らかとなった。剣吉諏訪神社の祭礼行事の中でも中心的な役割を担う御輿行列の起源を示す貴重な資料である。このように紀年銘のある制作当初の祭具が現在も使われている事例は県内では他になく、民俗文化財としても高い価値を有している。

 

 

剣吉諏訪神社商宮律鉦

 読み方:けんよしすわじんじゃさぎりかね
 種 別:有形民俗文化財
 指定年月日:令和元年11月20日
 

 神社に伝わる民俗芸能である剣吉諏訪神社商宮津(町無形民俗文化財)に使用される鉦。縁に刻まれた銘文によると、御輿渡御が始まった明和9年(1772)に当時の剣吉を代表する有力商人であった村井氏・立花氏によって奉納されたもので、製作者は江戸時代に活躍した鋳物師の西村和泉守である。名川秋まつりの神社行列で現役で使われている鉦で、商宮津が江戸時代から受け継がれてきた歴史を示している。

 

剣吉諏訪神社神楽太鼓

 読み方:けんよしすわじんじゃかぐらたいこ
 種 別:有形民俗文化財
 指定年月日:令和元年11月20日
 

 神社に伝わる伝統芸能である剣吉諏訪神社神楽(町無形民俗文化財)で使用される太鼓。箱の墨書きによって御輿渡御が始まった明和9年(1772)に村井氏・立花氏によって奉納されたことが明らかとなっている。神楽は剣吉上町に伝承されており、名川秋まつりでは神社に伝わる太鼓を使用して行列に参加している。神楽が江戸時代から受け継がれてきたことを示す貴重な資料である。

 

剣吉諏訪神社鏡

 読み方:けんよしすわじんじゃかがみ
 種 別:有形民俗文化財
 指定年月日:令和元年11月20日
 

 御輿渡御が始まった明和9年(1772)7月27日に村井氏・立花氏によって奉納された鏡。村井氏・立花氏は鏡を含めて3つの祭具を奉納しており、当時の剣吉村を代表する有力者であった事が伺える。名川秋まつりの行列では榊松にかけて運行されている。

 

 

剣吉諏訪神社のぼり旗

 読み方:けんよしすわじんじゃのぼりばた
 種 別:有形民俗文化財
 指定年月日:令和元年11月20日
 

 剣吉諏訪神社に伝わるのぼり旗で、御輿渡御が始まった明和9年(1772)に剣吉村の板垣孫作によって奉納されたもの。神社にはこれを含めて近世から近代、平成に至るまでののぼり旗が多数保管されているが、明和9年のこののぼり旗が最も古いものである。御輿建造の翌年に奉納されたもので、御輿行列の起源を示す資料である。

























 

 

 

 

 

 

相内熊野神社の祭礼行事

呼び方:あいないくまのじんじゃのさいれいぎょうじ湯立
種 別:無形民俗文化財

指定年月日:令和2年10月21日

 

 

 

 

 

 

 相内熊野神社は相内集落の北西に鎮座している。毎年9月8日に祭典が行われており、祭典で奉納される湯立神楽は湯立、下舞、身堅め、七つ道具、権現舞の5つの演目で構成される民俗芸能である。5つの演目の中でも湯立が民俗芸能として現在まで伝承されている事例は少なく、南部地方では他に三社大祭のお通りの際に執り行われている八戸市の靇神社と相内熊野神社のみが確認されている。 
 湯立神楽は明治初期頃までは盛んに行われていたが、笛吹の減少によって一度途絶えている。昭和49年(1974)に相内芸能保存会が結成されて復活に向けた活動が始まり、集落の古老からの聞き取りや、同じ山伏神楽の系統である田子神楽からの指導を基に、昭和52年(1977)に芸能を復活させた。以来、相内芸能保存会が中心となり、地域住民や子ども会が協力して伝承されている。