ページの概要:町指定文化財について紹介します。

上名久井諏訪神社神楽

呼び方:かみなくい すわじんじゃ かぐら
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:平成16年4月1日
所在地:上名久井字中町

解説
上名久井諏訪神社神楽は、1862年(文久2)に獅子頭を奉納しました。その獅子頭は朱色の大神楽で、獅子頭の中に銜(くわ)え棒があり、舞い手はこの棒を銜えて踊るため歯が丈夫でなければ踊ることができないといわれています。毎年、諏訪神社の宮司と共に春祈祷を行っています。

高瀬町内朳組

呼び方:たかせ ちょうない えんぶりぐみ
種 別:無形民俗文化財
指定年月日:平成16年4月1日
所在地:高瀬字上宮野

解説
高瀬町内のえんぶり組は明治時代からありました。えんぶり太鼓の胴の裏には「万延二年(1861)酉七月宮野若者中」と墨で書いてあるため、今から約150年前にえんぶり組が現存していたことがわかります。現在は「南部地方えんぶり」に参加し、高瀬町内の門付けをしています。

下斗賀稲荷神社宮太鼓

呼び方:しもとか いなりじんじゃ みやだいこ
種 別:民俗文化財
指定年月日:平成6年12月22日
所在地:斗賀字下斗賀
所有者・管理者:下斗賀稲荷神社

解説
稲荷神社の宮太鼓は、1771年(明和8)卯2月吉日(1771年)大阪渡辺移北ノ町の細工人満屋源蔵が製作した後、1822年(文政5)壬午歳5月吉日(1861年)、1876年(明治9)5月5日に太鼓の張替をして現在に至っているものです。

茶臼

呼び方:ちゃうす
種 別:民俗文化財
指定年月日:平成9年6月27日
所在地:大向字長谷94-6
所有者・管理者:恵光院

解説
年代ははっきりしていませんが中世に普及した形式で、戦国時代の遺跡から出土するものと同じものです。

 

 

高瀬町内会朳太鼓

呼び方:たかせ ちょうないかい えんぶり だいこ
種 別:民俗文化財
指定年月日:平成16年4月1日
所在地:高瀬字上宮野
所有者・管理者:高瀬町内会

解説
高瀬町内の朳組は明治時代からありました。また、えんぶり太鼓の胴の裏には「万延二年(1861)酉七月宮野若者中」と墨で書いてあるため、今から約150年前にえんぶり組が現存していたことがわかります。

馬場館跡

呼び方:ばばだて あと
種 別:史跡
指定年月日:昭和49年7月22日
所在地:小向字馬場

解説
馬淵川と猿辺川にはさまれた挟まれた天然の要害で、中世南部氏に関する城館とされています。現在知られる馬場館跡の規模はそれほど大きなものではありませんが、ここから東に大きく三角に突き出したところを含めて、もっと大規模なものであったとする説もみられ、聖寿寺館跡より古い形の館跡の存在が想定されます。以前はその四周に土塁と堀が巡らされ、井戸もあったといわれていますが、今ではこの台地の南側に堀と土塁、虎口とが見られるのみです。

平良ヶ崎城跡

呼び方:へらがさき じょう あと
種 別:史跡
指定年月日:昭和49年7月22日
所在地:沖田面字南古舘13
所有者・管理者:南部町

解説
1192年(建久3)南部氏初代光行の築城とされています。後にここを政庁とし、聖寿寺館を居城としたといわれています。北方の高山峠から浅水を経て五戸へ通じる道と、東方の八戸へ通じる道との分岐点にあり、交通の要所を押さえるところに立地された城館であることが、諸書に述べられています。

相内館跡(一夜堀跡)

呼び方:あいないだて あと(いちやぼり あと)
種 別:史跡
指定年月日:昭和49年7月22日
所在地:相内字荒屋敷
所有者・管理者:南部町 ほか

解説
1191年(建久2)糠部に入部した南部氏初代光行が、相内観音堂に宿をとり、豪農助左衛門の屋敷を借上げ、家臣村人総出で一夜のうちに堀を巡らしたというので、一夜堀館ともいわれています。現在確認されている郭には神明宮と民家とが立ち並んでおり、境内には当時のものと見られる土塁、東西には出入口を思わせる箇所も遺されています。

塚ノ越古塚(2基)

呼び方:つかのこし こづか
種 別:史跡
指定年月日:昭和53年10月17日
所在地:沖田面字南古舘10
所有者・管理者:南部町
 

解説
南部氏累代の墓を守ってきた八幡宮別当佐々木家が、南部氏の墓として代々供養してきたことから、南部氏の御塚といわれています。大正までは5基ありましたが、道路の拡幅工事の際に3基が取り崩され現在は2基残っています。

 

大向館跡(鎧神館・衣甲館・中山構館)

呼び方:おおむかいだて あと(よろいがみだて・えこうだて・なかやまかまえだて)
種 別:史跡
指定年月日:昭和53年10月17日
所在地:大向字下比良、ほか

解説
中世南部氏に関連する城館跡で、鎧神館・蝦夷館・中山構館が一体のものとして機能していたと思われるため、この三つの郭の総称として大向館跡としています。前に馬淵川、後ろに霊峰名久井岳を背負う、広大な館跡が想定されます。

 

赤石館跡

呼び方:あかいしだて あと
種 別:史跡
指定年月日:昭和53年10月17日
所在地:赤石字舘

解説
赤石城ともいわれ、館主は南部26代信直、27代利直に仕えた桜庭安房直綱(二千石)。赤石集落の東側で北に馬淵川を臨む断崖上としていますが、十二神社を中心にみると、赤石集落そのものが館跡としての痕跡が見られるため、もっと規模の大きな館跡と想定されます。

 

腰掛石(2基)

呼び方:こしかけ いし
種 別:史跡
指定年月日:昭和55年3月26日
所在地:玉掛字諏訪ノ平
所有者・管理者:諏訪神社

解説
聖寿寺館(本三戸城)に放火した赤沼備中と、追いかけた下斗米昌家がここで戦い、勝敗が付かず互いにに疲れ果て、腰を下ろして休んだと伝える二つの大きな石が境内に置かれています。元は諏訪神社の後方、国道(旧八戸街道)を挟んで北側に赤沼石が在り南側に下斗米石が在ったといわれていますが、いつの頃かここに移されました。
 二つ並んでいて大きい方が赤沼石で、少し小さい方が下斗米石といわれています。

一里塚

呼び方:いちり づか
種 別:史跡
指定年月日:平成8年5月29日
所在地:沖田面字梨子ノ木84-3
所有者・管理者:門前生産森林組合

解説
奥州街道沿いに残る、保存状態の極めて良い一里塚です。

 

 

三光寺いちょう

呼び方:さんこうじ いちょう
種 別:天然記念物
指定年月日:昭和49年7月22日
所在地:小向字正寿寺60
所有者・管理者:三光寺

解説
三光寺境内にあり高さ約22m、周囲約9.50m、推定樹齢約800年。

 

 

正寿寺おんこ

呼び方:しょうじゅじ おんこ
種 別:天然記念物
指定年月日:昭和49年7月22日
所在地:小向字正寿寺62-1
所有者・管理者:南部利昭・三光寺

解説
南部利康霊屋の左わきにあり高さ約15m、周囲約4.35m、推定樹齢約1,000年。

 

 

 

赤石けやき

呼び方:あかいし けやき
種 別:天然記念物
指定年月日:昭和49年7月22日
所在地:赤石字待場
所有者・管理者:赤石林野農協

解説
赤石十二神社の境内にあり、高さ 約22m、周囲約7m、推定樹齢約320年といわれています。根元に大きな瘤が多い木です。

 

 

 

しだれ栗

呼び方:しだれ くり
種 別:天然記念物
指定年月日:昭和51年3月26日
所在地:相内字相西
所有者・管理者:相内生産森林組合

解説
逆さ栗ともいう。安達の婆が杖を逆さに挿したという杖立て伝説が伝わっています。相内集落、浅水集落の境界にあり高さ約5.8m、周囲約1.5m、推定樹齢約400年。

 

 

 

夫婦杉(二股杉)

呼び方:めおと すぎ(ふたまた すぎ)
種 別:天然記念物
指定年月日:昭和54年7月10日
所在地:小向字鱒沢
所有者・管理者:古町共有山

解説
2本の杉が途中で接合して1本になった珍木で、集落では神木として大事にされています。樹高約25m、推定樹齢約150年。

 

 

 

 

 

八幡大杉

呼び方:はちまん おおすぎ
種 別:天然記念物
指定年月日:昭和55年3月26日
所在地:小向字八幡
所有者・管理者:八幡宮

解説
本三戸八幡宮の境内にある杉の大木で、推定樹齢約820年といわれています。胸高の周囲約7m、樹高約24m。

 

 

 

 

 

木造僧形山神半跏像

呼び方:もくぞう そうぎょう やまのかみ はんかぞう
種 別:彫刻
指定年月日:平成21年11月18日
所在地:大向字長谷1-1
所有者・管理者:恵光院

解説
恵光院には「山の神」として伝えられてきたが、青森県史叢書『南部の仏像』では、「役行者半跏像」江戸時代以前の作と紹介されている。役小角(えんのおづぬ)は役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれ、修験道の開祖として尊崇される人物である。
名称については、像が右手に持つ「マサカリ」により、専門家の意見の分かれる所ではあるが、恵光院住職の見解と、僧侶の頭巾、衣装、袈裟を身に付けていることから「木造僧形山神半跏像」とした。総高約55cm。

 

モミの木(トピコの木)

呼び方:もみのき(とぴこのき)
種 別:天然記念物
指定年月日:平成21年11月18日
所在地:高瀬字宮野38
所有者・管理者:諏訪神社

解説
モミの木は、江戸時代初期に神楽を奉納した際に、その記念として植栽されたと伝えられている。境内の鳥居の側に周囲5mを越える古木。樹高32.8m、胸高幹周囲5.18m、推定樹齢300年以上。
地元の長老達の話では、このモミの木のことを「トピコの木」と呼んでおり、その由来は定かではないが、明治年代の戦雲厳しい折に神社のモミの木に一羽のトンビがとまり、ピーショロ、ピーショロと鳴き続け、村人達は不思議に思い何か変事が起こるのではないかと噂していた折り、戦勝の知らせがあり、あれは神様の使いのトンビがピーショロ、ピーショロと戦勝を教えてくださったのだろうと、モミの木を「トピコの木」と呼ぶようになったという伝説がある。

 

伊勢沢の笠松

呼び方:いせざわ の かさまつ
種 別:天然記念物
指定年月日:平成21年11月18日
所在地:剣吉字伊勢沢98-2
所有者・管理者:下町内財産管理委員会

解説
昭和40年代まで、伊勢沢には2本の笠松が保護されていたが、現在は1本のみとなった。藩政時代は栗林の中にあり、里人により大切に守られた赤松である。樹齢約400年以上。胸高幹周囲2.48m、樹高7.10m、直径0.75m。

 

山神の松

呼び方:やまのかみ の まつ
種 別:天然記念物
指定年月日:平成21年11月18日
所在地:剣吉字下山43-1
所有者・管理者:下町内財産管理委員会

解説
相内野の絵図にこの松が描かれている。1666年(寛文6)八戸藩が誕生したが、この松は北氏の遺産といわれている。
松の近くには五戸道があり、剣吉の人々が古くから使用していた。隣接する相内野の脇を通り、峰伝いに剣吉から五戸に行ける比較的楽な道で、藩政期に剣吉近江屋、伊勢屋、イワキ屋等が使用し、道の目標の木、守り神であったといわれる。
昭和初期頃、この松に斧を入れた人に災いがあったといわれ、傷跡が残る。樹齢約450年以上。胸高幹周囲4.0m、樹高31.98m、直径1.3m

 

 

木造薬師如来像

呼び方:もくぞう やくしにょらいぞう
種 別:彫刻
指定年月日:平成27年2月17日
所在地:福田字舘30番地
所有者・管理者:田中裕・瑞泉寺
解説
奇峯学秀作  享保二十年(1735)  像高94.7cm  台座高7.0cm                        
 奇峰学秀(生没年不詳~1739)は現在の三戸郡田子町出身の江戸時代中期の僧侶である。岩手県九戸村伊保内の長興寺七世(一説に十一世)住職を務めたのち、八戸大慈寺の六世として迎えられ、正徳二年(1712)には千体の観音像を彫り、八戸藩の各地に寄進した。さらに十年後の享保七年(1722)には、田子町釜淵観音堂において再び千体の観音像を彫った。弥勒菩薩像や十一面観音像は田子町姥ヶ岳神社に残され、地方仏師の貴重な作品として、県重宝に指定されている。晩年は五日市の牛頭天王堂(八坂神社)南側の三書林顧養庵で余生を送っていたと伝えられる。元文四年(1739)に入寂し、三書林顧養庵の墓地に葬られた。                    
この薬師如来立像の背面には「享保二十乙卯歳四月八日 八戸大慈六世奇峯学秀作」と学秀自刻の銘があり、学秀が享保二十年(1735)、薬師様のご縁日である四月八日に寄進したことを物語っている。

 

木造牛頭天王像

呼び方:もくぞう ごずてんのうぞう
種 別:彫刻
指定年月日:平成27年2月17日
所在地:下名久井字鍛冶長根2
所有者・管理者:八坂神社
解説
奇峯学秀作  像 高 約70cm                                
奇峰学秀(生没年不詳~1739)は現在の三戸郡田子町出身の江戸時代中期の僧侶である。岩手県九戸村伊保内の長興寺七世(一説に十一世)住職を務めたのち、八戸大慈寺の六世として迎えられ、正徳二年(1712)には千体の観音像を彫り、八戸藩の各地に寄進した。さらに十年後の享保七年(1722)には、田子町釜淵観音堂において再び千体の観音像を彫った。弥勒菩薩像や十一面観音像は田子町姥ヶ岳神社に残され、地方仏師の貴重な作品として、県重宝に指定されている。晩年は五日市の牛頭天王堂(八坂神社)南側の三書林顧養庵で余生を送っていたと伝えられる。元文四年(1739)に入寂し、三書林顧養庵の墓地に葬られた。   
像は牛面を額にほどこし、髪を逆立て、目と眉を吊り上げたきびしい表情をしており、左手に斧、右手に羂索を持ち、堂々と台座に座っている。顔は胡粉と朱で彩り、これまでの学秀の作柄とは異なっている。                     
牛頭天王は京都祇園の八坂神社の祭神で、疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体であるとされている。
この牛頭天王像は同時期に奉納された棟札から、学秀入寂の2年前にあたる元文二年(1737)に、名久井村三書林顧養庵で余生を送っていた学秀が、名久井村の梅内宇兵衛の依頼で製作し、牛頭天王堂に納められたものである。棟札とともに残されている例は他になく貴重である。また、製作年代が棟札から明らかになっている上、その年代から学秀最後の作と考えられる。

牛頭天王棟札

呼び方:ごずてんのう むなふだ
種 別:歴史資料
指定年月日:平成27年2月17日
所在地:下名久井字鍛冶長根2
所有者・管理者:八坂神社
解説
長さ 約90cm
 裏面には学秀の署名と花押がある。これは唯一のものとされている。
 表の墨書きは、
 聖主□中天 五日市村梅内宇兵衛實武与申仁有之
 迦陵頻伽聲 知善悪之業知過去現在未来捨悪
 哀愍衆生者 取善禅者成然當所従古来牛頭天王
 我等今敬禮 之宮有之新作天王為菩薩因願望成就畢
         天文二乙巳年 七月十七日 施主梅内宇兵衛實武
 裏の墨書きは、
 牛頭天王作者 八戸大慈寺六世奇峯學秀 花押                     八坂神社境内にある間口二間、奥行一間半の牛頭天王堂に牛頭天王像とともに置かれている。  
 この棟札は学秀入寂の2年前にあたる元文二年(1737)に、名久井村三書林顧養庵で余生を送っていた学秀が、同じ村の梅内宇兵衛の依頼で牛頭天王像を製作し、牛頭天王堂に納めたことを記録したものである。学秀仏とともに納められた棟札としては現存する唯一のものであり、学秀の花押が墨書された唯一のものでもある。牛頭天王像とともにこの棟札が納められた場所も学秀が晩年を過ごし、入寂した土地であり、学秀の晩年の軌跡を読み解く上も貴重である。

木造薬師如来立像

呼び方:もくぞう やくしにょらいりつぞう
種 別:彫刻
指定年月日:平成27年2月17日
所在地:下名久井字在家13
所有者:高森直樹
解説
奇峯学秀作  像 高 19.3cm  台 座 1.9cm
この立像は、学秀が晩年を過ごした五日市の三書林顧養庵跡にほど近い、下名久井の高森家に代々伝えられたものである。小ぶりではあるが、左手に薬壺を持つ珍しい像で、精緻に彫られた優品である。製作年代は不明であるが、伝えられた場所から学秀晩年の作である可能性が考えられる。

 

向鶴銅製品

呼び方:むかいづる どうせいひん
種 別:考古資料
指定年月日:平成28年5月18日
所在地:大字沖田面字沖中46
出土地:史跡聖寿寺館跡
所有者・管理者:南部町教育委員会
解説
 中世段階で「向鶴」が施された製品としては初めてとなる青銅製刀装具が出土した。この製品は聖寿寺館跡の中心的な建物である大型掘立柱建物跡(建物B)を構成する柱穴の中から出土した。長さ26mm、幅13mm、厚さ3mmで、刀の柄の装飾として施された「目貫(めぬき)金具」と考えられる。遺構の年代から15世紀後半から16世紀前葉のものと推定される。1円玉ほどの円が二つ連なり、ぞれぞれの面に鶴が施され、向かい合った状態となっている。

金箔土器

呼び方:きんぱくどき
種 別:考古資料
指定年月日:平成28年5月18日
所在地:大字沖田面字沖中46
出土地:史跡聖寿寺館跡
所有者・管理者:南部町教育委員会
解説
金箔が施された土器は、平成26年度に聖寿寺館跡の中心的な大型掘立柱建物である建物Aを構成する柱穴と、その付近にぞれぞれ1点ずつ出土した。どちらも幅4.5cm程度の口縁部破片であり、厚さは4mm。手づくねの土器の内外面に黒漆が塗られ、その上に金箔が貼られている。翌27年度には15m東方の柱穴よりロクロ成形の底部片が1点出土している。底部片は底以外に金箔の付着が見受けられた。金箔土器は全国的にみても類例は少なく、後北条氏の小田原城(神奈川県)、八王子城跡(東京都)や毛利氏の居城である吉田郡山城跡(広島県)、大内氏の大内氏館跡(山口県)等、室町時代から戦国時代を代表する大名の居館等でしか出土していないのが特徴である。三戸南部氏は1418年(応永25)13代守行が室町幕府4代将軍義持に馬百疋、金千両を献上し、1539年(天文8)には24代晴政が12代将軍義晴から晴の字を偏諱されている。金箔土器の出土は東北地方では初であり、国内の出土例をみると各遺跡からは破片が数点しか出土していないことから、当時としても希少性の高いもので、都や北陸等の交渉の中で持ち込まれたものと推測される。出土した金箔土器は手づくねとロクロ成形の2種類あり、手づくね土器が浅い皿であることに対して、底部片は立ち上がりがきつく、それぞれ器形が異なる。産地や入手経路についても異なる可能性がある。

 

八木田の十三塚

呼び方:やぎたの じゅうさんづか

種 別:史跡
指定年月日:平成28年5月18日
所在地:片岸字八木田65-1内
所有者・管理者:夏坂秀一
解説
 八木田の十三塚は馬淵川の北側、苫米地に広がる田園地帯の北側の段丘上に立地する。塚の立地する尾根から沢を一つ隔てた西方の尾根には八木田館跡が立地し、また北東約1.4kmの位置には御嶽神社が所在する。御嶽神社創建の由来は憤死した赤沼備中の次男が創建したと伝えられ、天台修験であった。御嶽神社の所在地は、元はこの地域(片岸字八木田65番地内)に所在したと云われている。
 現存するのは九基である。そのうち、9号塚だけが縦列しない。
概ね円形を呈すが1・2号塚は不整形である。馬の背状の地形の陵線上に位置し、北側に沢があり、南側は緩やかに傾斜する。1号塚の西に堀切状の構造物があり、塚の領域を区画しているように見える。修験者が死者の追善のため、明徳四年(1393)に十三塚を築いて祈祷の場としたといわれる。

 

相内神明宮お神楽(獅子頭) 

呼び方:あいないしんめいぐうおかぐら(ししがしら)
種 別:彫刻
指定年月日:平成29年3月15日
所在地:大字相内字荒屋敷(神明宮)
所有者・管理者:沼畑和雄

 

解説                                           

 相内神明宮に伝わる神楽は、寛政年間初めに相内で発生した23戸の大火を受けて、36代南部利敬が災難を治めるために火伏神楽を行ったのがはじまりとされる。獅子頭内面には36代利敬の幼名と彫師、塗師の名前等が刻まれている。
大仙院周字示之 奉納 相内神明
獅子頭一頭 太守三十六代慶次郎公
御武運長久 国家半繁昌 于時
寛政五壬子七月吉日
彫刻 岩間善征 塗 馬場宗容

 西有穆山関係資料

西有穆山関係資料呼び方:にしありぼくざんかんけいしりょう
種 別:歴史資料
員 数:9点
指定年月日:平成31年3月20日
所有者・管理者:法光寺

解説
 西有穆山(1821~1910)は幕末から明治期にかけて活躍した現八戸市港町生まれの禅僧。曹洞宗の開祖道元が著した『正法眼蔵』の研究と伝承に寄与した人物。13歳で仏門を志して出家後、14歳から5年間の修行生活を法光寺で過ごした。明治7年(1874)からは、法光寺三十世として3年間住職を務めている。明治34年(1901)からの4年間、曹洞宗に大本山の一つである總持寺(神奈川県横浜市)の貫首を務め、また明治35(1902)には、青森県出身者としては初めて曹洞宗最高位である菅長に就任した。国登録有形文化財「法光寺承陽塔」の発願者でもある。
 穆山とゆかりの深い法光寺には、穆山が残した書画や墨書、書状が良好な状態で数多く所蔵されている。書画には親しみやすい絵や禅の教訓が込められており、穆山の求道者としての志や気概を知る上で貴重な資料と位置づけられる。